写真というもの
「写真」というものはその社会的使命を終えた。
誤解しないでほしい。無意味だと言っているのではない。
より文化的な立ち位置に立った、というかもはや
文化的なポジションしか残されていない、というべきか。
ここで言う写真の社会的使命とはなにか。
それは「見える形の肖像として情報を伝える」という事。
写真が生まれ普及する前の時代、それは「絵」の役割であった。
風景画、肖像画、絵図などなど。
絵の持つ「情報を伝える」という役割は写真に移り、
「写真」という範囲のなかでフィルムからデジタルへ移った。
カメラという専用の機材を使い、わざわざ撮る。
そのわざわざ感も含めてありがたみと楽しさがある。
それが「写真」だった。
デジタルカメラが普及してより安価で手軽になった結果、
もはや情報を伝えるのにわざわざ「写真」を撮る必要はなくなった。
その社会的使命は「画像」で十分なのだ。
携帯電話にちいさいレンズが付いた時、
機能としてのカメラが付いたあの時から
徐々に世の中に浸透し、優先した便利さに性能が追い付き
今や情報の記録と伝達はスマートフォンで十分というか
まさにそれが適している、そうなのだ。
それはけして否定や非難に値するものではなく
情報伝達手段としての機能として考えれば
「絵」を描いて伝えていた時代から「写真」を経て
より手軽に簡単に伝えることのできる手段を手に入れた。
これは喜ばしいことである。
そう、写真はいまや文明の利器としての社会的地位を失った代わりに
純粋に文化的位置づけに立った。そう思う。
しかしそれはそれを取り巻く規模の圧倒的な縮小を意味する。
もはや「写真を撮る」という行為はそれ自体がニッチであり
物好きであり興味のない人にとっては理解不能な事。
写真を撮り続けるということは圧倒的な変わり者である。
問題はその目も当てられないくらいに縮小するであろう
「写真」というワールドとそのために必要な「カメラ」という機材を
使い続けられる環境をどう維持継続させるか、そういう事。
今後カメラメーカーとしてその事業だけで大企業であることは
不可能であり事業としては会社のお荷物にならざる得まい。
さあ、どうする。ったて、それでも僕は写真が好きだから
撮り続けるしかなんだけどね。
本当は旅カメラとしてのコンパクトカメラがいかにいいか、
そして今コンパクトカメラの選択肢が少ない嘆きを書こうと
そう思ったんだけれど、どうも前ふりだけで長くなってしまったので
また今度。
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