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2018年1月15日 (月)

梶原山から見えたもの

Sdim2630


いまだに中世前半に静岡平野にだれが暮らしていたのかを考えている。
清水平野には多くの苗字が残り、鎌倉武士団がいくつもある。
 (入江、吉川、興津、由比、蒲原・・・)
藁科川の西側にも古い苗字がある。
 (手越、藁科)
古墳はほとんど山にある。
古刹は今川ゆかりのものばかり。


そう、静岡平野には登呂遺跡から今川までの間が
空白なのだ。
一方、山間部には無形重要文化財が多く残る。


そんな事も考えながら久しぶりに梶原山。
清水も静岡も(ようするに、江尻も府中も)よく見える。
で、思いついたこと。
今の暮らしでは平野部のほうが便利がいいから見落としていたけど、
山側は水源を持っている。あぁ、そうだ。
川の上流にいる部族が下流の地域を支配していた、
そう考えると腑に落ちる。


清水平野は距離感的に山を平野を同じ部族が支配するにちょうどよい
そんな広さだったんじゃいかな。
一方、志太郡は平野が広いから山とは別に大きな部族が武士団を作った。
静岡平野はこの中途半端は広さ(奥行き)で、
かつ安倍川水系がいくつにも分かれて流れている水郷。
おそらく、単独で武士団が形成されるだけの経済力がなかった、
そう考えるとなんだか納得できそうな。


国司の直轄だとしても、そこの田んぼがあって荘園や国人がいれば
「苗字」が生まれる。それが中世のながれだけれど
有度郡、安倍郡にはどうも苗字が見受けられない。
東の入江、西の岡部、朝比奈。
まわりの地域と明らかにこのエリアは違う。


人の暮らしが感じられない中世、
見つからない国府と国分寺。
焼き払われた今川の街。
大名がいなかった駿府城。
大火と空襲で失われた市街地。


静岡市に圧倒的に足りないものは「歴史」、
それも「連続した人の営み」、そう思う。
そして、それを理解したうえでの今。


そうでないと静岡の特徴は見えてこない、そう思うな。

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