DP-1を考える
と言いながら、それほど深い話をするつもりはなく^^。
手元にあるDP-1、2008年3月発売の初期型で。
最近は以前ほど出番がなかったけれど使い始めて6年8か月。
「年数を経た結果の性能」に対しての不満はやっぱりなくて、
『新型を気にしなくてもいい、使い込めるカメラ』としての選択は間違ってなかったなぁ。
仕事用のコンパクトデジカメとしてP7000を使っていたころにどこかで書いたけれど
ちょっと厳しい状態(逆行とか明暗の差が激しいとか)での撮影をしようとすると
P7000は『いいっすよ、OKっす』くらいな感じでそれなりな仕事をするけど
DP-1は『無理だよ、それ。覚悟して撮れよな』って、そんな感じ。
だもんでしっかりいろいろと考えて撮らないと『…』な結果で
となりでカメラも『な、言ったろ』なんて横向いている。
だからデジタルカメラだけれど、コンパクトだけれど全然気楽さはなくて
むしろいろんなことを教わったと思うな。露出とか補正とか、うん。
ただ、そんな風にいろいろ気にしながら撮った風景は
「OKっすよー」なんて気楽に撮ったのとはなんだか違って
その場の空気が写ることがある、そんな気がするな。
それはきっと気分の要素が大きくて気のせいに属することかもしれないけれど
僕の写真はそんな行程も含めて季節を感じる絵日記だから。
だから気持ちに余力がないとDP-1は難しいわけで、
このところあまり使えていなかったのはそんな訳。
いやいやそのすべてを使っているかといわれれば、いやいやどうもごめんなさい。
ようするに、飛鳥と奈良のお散歩旅行は広い景色に会えそうだから
DP-1も持って行ったよ。久しぶりにいろいろ撮った。
やっぱり何かがちょっと違う、そんな気がしながら。
うん。
上のひとつはDP-1 でもう一つはXQ-1。
(いまはP7000じゃなくてXQ‐1を使っている)
ちっちゃくてきれいに撮れるいいカメラ。
「撮るかどうかわからんけれどお散歩に」なんてときにはすごくいい。
※ひとつ前の記事の写真はXQ-1。よく撮れる^^。
道具って、どんな目的でどう使うか、だななんて改めて思うのです。
だから、「なんでもついてる便利さ」なんて便利じゃないんだよ。
なんでも撮れるカメラより、それでしか撮れないカメラ。
そしてそれを(少しでも、まぐれでも)使える自分。
その両方がそろって初めて『 写真 』なのかな。
むむ、最後はけっこう大風呂敷な話をしてしまった…(笑)。
ちゃんと『写真』撮れるようになりたいな。
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