なくなってしまったけれど、写真整理の日記として
とても便利だったなぁ。
このところ、改めて読み返してそう思った、うん。
おしいなぁ。
もともと写真はぜんぶ保存してあるのだけれど、
その時々にキャプション付きで整理したのとおんなじで
見るとそのときのことを思い出すし、
それには日記の形式は分かりやすかったのだ。
いっぱい、いろいろと読み返したよ。
*****
ただ、そんな後ろ向きに振り返っても仕方ない。
今まで使った写真だって、綴った言葉だって、
まるで新品のように使えるじゃないか(笑)。
いやいや、写真はともかくお散歩日記はね、
もう文才が2007年ごろに枯れた(?)ので毎年おなじような事しか
書けませんもの、うん。
だから、はじめて書くようにまたここでも書けるのが
ちょっとうれしい。
すこしはよりよい文章になるといいな。
そのときそのときでまた、かつてと同じ季節のなにがしを
感じるとするならば、それはやっぱり自分にとってその瞬間の
大事な感覚。
だから、おなじかもしれないけれどその時々の『今』を自分の言葉で。
そんな風に思っている、のです。
*****
あれ?かめぴの話はあまりないまま終わってしまった^^。
まぁいいか、うん。
本日8月30日の12時にかめぴSNSが終了しまして、
そこでは6年間とちょっとのあいだ、絵日記みたいな
写真日記をつけていたわけです。
さて、日記をどこで書こうかなぁ、なんて思っていたわけですが
こうして日記用のブログをひとつ作ることにしたわけです。
そうなのです、うん。
そこであらためまして、自己紹介^^。
名前:なおつぐ^^
趣味:写真、駅弁、用もないのに日帰りの旅、パーキングエリアでごはん、など
写真のテーマは『身の回りにそっといるちいさい季節の気配』です。
それと、しかちゃん(笑)。
ブログ歴は9年目で始めは『ご近所ネイチャー、今日は何撮る?』だけ。
いまでもこれはメインのブログで撮った写真のなかから
それでもなんとか見ていただけそうな、そんな1枚のシングルカット。
もうひとつは『しかちゃん、それは。』。
奈良からやってきたちいさなしかちゃんが果物やお菓子やいろいろを
「しかちゃん、それは○○ですよ」って教わりながら綴る、
そんなちいさな歳時記。
ほんとうはもうひとつブログがあって、
『POLAで1枚、とりあえず』っての^^。
ポラロイドのフィルムが手に入らずに休止中、公開はしてあるけれど。
そんなこんなでもうひとつ、日記のブログのはじまりです。
日々のことだったり、しかちゃんだったり、おもったこと。
そんないろいろ。
どうぞ、よろしく。
『かめぴ』でかかわりを持てたみなさまに
感謝いたします。どうもありがとう。
コメントでお声かけくださった方も、
いつも写真を見に来てくださった方も、
たまたま通りすがってくれた方も、
直接は関われなくてもこの同じ場所に籍をおいた方も
なかよくしてくれたみなさん、
私の配慮のなさで袂をわかった方、
いつの間にか見えなくなったしまった人、
それでも自分の好きな写真を撮り続けているみんなへ
この場所で(ちょっとぬくぬくと)絵日記のような
写真日記を綴れた楽しさ。
ころころしかちゃんといっしょに見たいろんな景色と
おやつとお菓子と駅弁と
しろつめ草やたんぽぽやふわふわ綿毛に土手と空
いつかの子猫に元気なつばめにちいさなカマキリと
しじみとセセリにあさがお、ひまわり、おしろいばな
奈良の柿の木、朝比奈郷の景色、高速道路の路上の公園
日本平の野外リビングに動物園と駿府公園のベンチの影
そんなこんなの書ききれないけど自分のなかで覚えてる
そんな6年間のふわふわしたような季節の日記としかちゃん日記。
やっぱり、どうもありがとう。
しかちゃんだって、『ありがとう』だね。
*****
というわけで、来月からはブログだけ。
これからもよろしくお願いいたします。
そんな想いもこめて最後の日記はしかちゃんで^^。
※この日記のための撮りおろし!
(というほどのものでもない^^)
*****
そして、心残りはとある方とそれ以外にも何人かに
お礼の言葉を伝えることが出来なかったこと。
『ありがとう』
自分の好きな写真を撮り続けている、そんなみんなへ。
*****
さて、ひとしきり続いてきた昔の日記の焼き増し(笑)も
これでおしまい。
ここから先がスタート、なのです。
うん。
しかちゃんだって、来年のひまわりさんの大きな姿を
今のうちから楽しみにしているみたいだよ。
ね^^。
そんないつかのひとり遠足^^。
いやいや、ひとり+しかちゃん遠足の日。
前の日は夜シフトだったりして寝たのは1時すぎだけど
えいやぁって5時おきでカメラとフィルムをいれたらもういっぱいの
新しいちいさいカバンをぶらさげて久しぶりの遠出の日。
朝の新幹線に乗るためにりくりく歩く朝の時間。
なんで歩きかっていえばまだまだバスの時間にならないから、うん。
何気ない住宅地(町外れのところだけれど)の歩道で
にょろって青大将!久しぶりにしかも歩道でおっきなへびと出会って
ちょっとびっくり。
それでもちょうどいい時間に駅までついて
どしよかなって思うけど、えいやぁ!って買っちゃう切符の先は奈良なのだ。
朝ははやかったからご飯はまだで、行ってみるのは改札前。
いつもの売店は東海軒。
朝も6時半だってのにしっかり並んでるお弁当。
静岡の人にはあたりまえのこの景色もいまどきの地方では
めずらしいこと、なのかもしれません。
サンドイッチに助六に鯛めし、そしてやっぱり幕の内。
朝だから親子めしがあればそうしよかなって思ったけれど
まだ出来てないみたいだからここはやっぱり幕の内(笑)。
ちいさいバックに駅弁さげて駅のホームで待ってると
やってくるのはまず「こだま」。
「ひかり」に乗ろうかって思っていたけど静岡発だしこだまの方が
ゆっくりご飯も食べれるからまぁいいや。
とりあえず乗り込む「こだま」号。
さっそく広げる東海軒の幕の内っ。
いつもとおんなじで美味しいね。
って電車の中で気がつくのはこの大きさを重さのバランス。
置いても持ってもものすごく食べやすいなぁ。
掛紙がなくなってフタ代わりのボール紙になったのは残念だけれど
中身はしっかりいままでとおりのお弁当。
いろんな駅の駅弁屋さんがなくなっていく今日この頃、
いつまでもちゃんとあってほしい東海軒の駅弁なのです。
あれ?静岡の駅弁の話でおわっちゃう?(笑)
そんなこんなで9時まえには京都着。
こだまだって十分はやい、新幹線。
新幹線の改札から奈良線ホームはすぐ横だけどみやこ路快速までは
ちょっと時間があるから連絡通路を一往復^^。
なんてやってるうちに入ってくる快速電車。
みやこ路快速は京都~奈良の往復運転、いったりきたり。
たどり着いた奈良はいい天気。
それにしても駅の工事はいつになったら終わるのかなぁ、奈良駅。
ちょっとこぎれいになった三条通りの商店街をりくりく抜けて
やってきたのは猿沢池のおみやげ屋さん。
そのうちのひとつはしかちゃんのご実家なのだ、そうなのだ。
ね、しかちゃん。
そんなこんなではじまる夏の遠足、奈良の巻。
予告編だけで終わりそうな勢いだな、うんうん(笑)
*****
そんなこんなで猿沢池から興福寺。
長い石段のぼりながら、もうすっかり暑いなぁ。
工事が始まった(?)金堂のよこから五重塔。
あぁ奈良、だね。うんうん。
ちいさいカバンからえいっってカメラを取り出して
木陰にそって進んでみましょうそうしましょ。
いつもは一の鳥居からまっすぐ進んでいるけれど
今日はちょっと先に寄り道で。
池のよこの芝生の広場の柿の木はふさふさ葉っぱを広げながら
その下でまだまだ青くて小さい柿の実たちをこっそり子育てまっさい中。
今年もいっぱい実る、かな。
葉っぱが赤くなるころにまた見上げて見れたらいいなって、うん。
鹿さんたちも暑いから木陰なところでくつろいでるね。
なんて思っていると飛火野のおおきなくすのきの下からホルンの音色?
いろんなところからまっしぐら。鹿寄せなんだね。
でも「そんなのいいよー」ってマイペースでめりめり葉っぱを食べてる子、
そんな子はなんだかいっそうかわいいな。
大きくなりかかった小鹿がおおくて
あまえたような鳴き声でかあさん鹿のあとからひとりふたり、そろって歩く。
そんな姿はやっぱり、いいなって。
参道からちょっと脇の禰宜の道、歩いてみる。
街のよこの原生林。やっぱりこれは不思議だなぁ。
そう思うけど、どんな街でも古い社のところには見上げるようなおっきな木。
あれとおんなじようなもので、それが森や山の規模で残っている。
そう思うえば納得でなおさら大事にしないとね。
そんなことをしかちゃんに話しかけながら森の中の禰宜の道。
春日大社についた頃にはもう疲れちゃった^^。
若さがないなぁ、もう。若くないもん、うん。
春日大社におまいりして、若草山のふもとから東大寺。
ふもとから見上げる若草山と空と雲、ちょっぴり色付く葉っぱといっしょに
いい景色だなぁ。
おりからちょうどお昼時。
いつもの三月堂の前のお店で「きつねうどんとかやくごはん」を食べようと
のぞいてみると混雑中。
おなかもすいたし、暑くてお疲れぎみだけどちょっとまわりで時間あわせ。
そうもしていると空いてきてやっぱりいつものきつねうどんとかやくごはん。
うまうま^^。
ごはんも食べて休憩すんで二月堂。
石段がちょっときついなぁ^^。
上ってみればいい天気の空で生駒山まですっきり見える。
居合わせた団体さんのガイドのおじさん、真顔でおもろいこと言ってるなぁ。
降りてく石段。
ふと横をみるとトカゲも散歩。はやく日陰までお行きなね。
下のほそい水路?には沢がにたちがあそんでる。
そんなのも思いがけずに楽しいね。
秋のトンボもいっぱいだね。
さてさて、つぎは大仏さん。
*****
降りてきた先は大仏殿。
大仏さまはいつもとおなじででっかくてしかちゃんいっしょに見上げて見る。
ちょうど小学校と中学校の団体といっしょで大わらわ。
差し込むひかりをつづりながらゆっくりゆっくり。
後ろからみると「あーやっぱりおっきいね」そう思うな。
表の参道は観光の人と修学旅行と鹿さんたちでいっぱいで。
鹿せんべいのお店のまえで鹿さんたちはみんな並んでスタンバイ^^。
おしりそろえて待っているね。
暑さのせいかもうお疲れ気味^^。
博物館はどうしようかなって思ったけれど、あれはあれで疲れちゃうから。
(「観る」というのはものすごく、疲れます。本気で観ると)
そのまま鹿たちをながめながらちいさな松ぼっくりを拾い上げ。
1こだけもらって帰ろう奈良の松ぼっくり。ね、しかちゃん。
猿沢池横のおみやげ屋さんはひとつふたつと店開き。
しかちゃんのご実家はまだみたいだね。
向かいのお土産屋さんに入ってみる。
いたいた、しかちゃんのお友達たち。
みんなかわいがってもらえるといいね。
そんなこんなで駅まで来るとちょうど夕方前の頃。
みやこ路快速で帰りますよ。
*****
で、帰ってきた京都駅。
さぁ、駅弁買って食べながら帰りましょうね「こだま」でね。
って思って探してみても…
あれれ、京都駅荻乃屋さんのお弁当が見当たらない。
ホームの荻乃屋さん売店にはなんでだろ柿の葉寿司だけこっそりと。
(実は朝もそんな感じだったので不安だったのです。)
京都の駅弁をたのしみにしていたのに残念無念。
どうなっちゃったんだろう、心配だなぁ。
無論、JRパッセンジャーのお弁当やなにやらはいっぱい売っていたけど
なんだかがっかりして「そうだ、米原で駅弁だ」なんて思っちゃう。
こだまで一駅先の米原に。
でも、ここでもタッチの差で「湖北のおはなし」が売り切れちゃう。
ホームに下りたときにはまだあったのだけれど
待合室の売店を見に行っているあいだになくなっちゃった…。
むむっ、痛恨のミス。
おなかすいたよー
仕方がないので名古屋駅^^。
結局いつもの「からあげ弁当」になんだかくやしくなってもう1こ(笑)。
これは初めてだな、の「とり飯」。
もうやけくそで2ことも続けて食べちゃってすっかりおなかがいっぱい。
21時すぎ帰ってきた静岡駅。
ホームの売店はもうしまっているけれど改札前のいつもの売店は
しっかりいろいろ駅弁そろえて販売中。
やっぱり東海軒ってすごいなぁ。
*****
ひさしぶりのひとり遠足の日記の最後は
こんな駅弁のおはなしでおしまい、なのです。
うん。
【岡山あるき】
今日のさんぽは岡山で。
なんでと言われれば、雪(雨)が早めにあがってそうなのが
岡山から西だったから。
名古屋も大阪もしっかり雪。
それでも予想どおり、曇りにちょっとの空が見える。
むかしむかしの大昔(?)、かつての大学生だった頃
5年暮らした岡山へ、16~7年ぶりにこんにちは。
駅から大通りを通って表町。
りくりく端から端まで歩いて、意外とそんなに変わってないなぁ。
昔ながらの商店街のこの通りはそんなに賑わってないように
見えるけれど、それはきっと
「必要はものは必要なときにいつもの店で買う」という昔ながらの
消費行動があるようにも思えるなぁ。
それでも細かく見てくと変わっているね。
京橋わたって中納言の停留所。
あぁそうだ、受験のときにこのあたりで泊まったっけ。
どうしようか迷ったけれどせっかくだからお城もよって、
後楽園は寄らずにまたりくりく歩いて西口へ。
自転車だけの地下道もなんだか見覚えがあるなぁ。
交差点の交差した歩道橋をわたって、
後輩が暮らしてたアパートが今でもそのままあるのを横目に
学校の方へ。
新しい道が出来ていたり(まぁ当時から計画はあったけれど)、
お店がけっこう変わったりなくなっていたり。
ちょと意外な感じだなぁ。
思えば当時、300~400円あれば十分なご飯が食べられた学生街の
食堂だけれど、今は300円のご飯は普通にあるからなぁ。
学校のなかはけっこうそのまま。
入学式・卒業式の体育館。
使用用途は変わったけれど、建物そのままの学館。
図書館の時計台。
殺風景な講義棟。
あいかわらず広い校内。
東西通りの正面の県営グランドはけっこう変わっていたね。
おっきなスタジアムに立派なアリーナ。
昔のテニスコートの場所にアリーナができて、昔の体育館の場所に
あたらしいテニスコート。
北のテニスコートはそのまま。
なつかしい11番コート、こっちはクレーのまま。
でも、普段は使ってないのかな。そんな感じ。
そんなこんなで見覚えのあるもの、ないものを
きょろきょろ見ながら駅まで戻って奉還町。
もともと開けていて、道路も広く開発されていた東口は
基本的にはそのまんまだけれど、西口はけっこう変わったね。
改札が上の中央になったから、津山線が直接見える。
帰りは姫路で駅弁買おうかなって思っていたけど、
こだまが1時間に1本しかないなんて・・・orz。
ちょっとびっくり、不便だね。
仕方がないので目の前の新幹線に乗って、
乗り継ぎ乗り継ぎ、ホームに降りるたびに駅弁買って(笑)
もりもり食べながら帰ってくる夜。
けっこう思い出して、覚えていて楽しかった。
けど、一日じゃ大変だなぁ、やっぱり。
うん。
(2011年2月11日)
そんないつかの日記より
*****
「ことば」は「おもい(思い・想いどちらでも)」である。
言葉の量はそのおもいの量に比例する。
おもいが言葉を作り、その作られた自身の言葉に
またおもいは引きずられる。
言葉を閉じれば必然としておもいは減じる。
人と人とは本来、なにもつながっていないのが
ありのままであるというのに、勝手なおもいは時に
理不尽な欲を作る。ちいさいちいさい、まるでそれは
当たり前に感じられてしまうような、欲を。
本来、なにもつながっていない「なにか」に
「つながっていない」と失望するのは愚かしくもあり、
そして、その愚かさが人とも言える。
自分にとって、当たり前のちいさな行為を
他に自然と求めること、それも突き詰めれば
ひとつの欲に他ならない。
自ら何も手にしていないことを知りながら、
「何も手にしていない」と嘆き悲しみ怒ることは
人間らしくもありながら、ひどく滑稽である。
時に、理不尽さを知りながらその滑稽な衝動に
いっそ身を任せたいと思いながらも
それすら出来かねるのはこの身のかわいさゆえの
小心に過ぎない。
自分以外の何者にもなんの責任はない。
すべてはこの自分の器量のなさ、ゆえなのだ。
ふらっと路上に出た僕は今日が満月だったことに気がついた。
道路の先の夜の空にまるい月は浮かんでいた。
今、僕は「満月」といったがそれは正しくない。
満月のように見えているだけだ、僕の目に。
ついこの間まで楕円であったり、薄い雲をまとって朧だったその月は
今日は思いがけずにさえぎるものもなく、その姿を煌々とさらしている。
夜の肌寒さが心地よい。
日中、まるで夏のようだった今日の陽気はすっかり落ち着きを取り戻し
開け放たれた右の窓からは冷気をまとった5月の空気。
少々軽薄なカーラジオを消し、左の窓も開け放つ。
巻き込むように車内を抜ける風。
冷気以外の心地よさが通り抜けるこの感じ。
夜、ふらっと気の向くままバイクで走り出したあの頃。
あれはいったいいつのことなのだろう。
ぐるっと街を一回りして帰ってきてしまう。
月はさっきよりも高い空に浮かんでいる、ただひとりで。
すぐに帰ってきてしまった俺をちょっとニヒルに笑ってやがる、そう思った。
ちぇっ。
さて先日、棚からひっぱり出したのは学生時代の後半に
使っていたウォークマン。もちろんカセット、およそ20年前。
再生のみだけれど、カセットケースと同じサイズ。
今考えてもすごい機械だと思うわけ。
で、今でもメディアにダウンロードとかいう手段で音楽を聴くという
ことをしないおっちゃんなので比較できないのですけれど
今主流のデジタルな音は「音質」という点でどうなのかなって。
ちょっと思ったのです。
もちろんしっかり手を加えられたデジタル音源は文句なくクリアで
よいものだと思うのですが、『聴く』という手段を含んで考えると
実際に鼓膜に届く『音質』としてどうなのか、と。
ちょっと前(だいぶ?)まで主流だったCDラジカセ。
CD1にカセット2とラジオが普通で、低音用のウーハー付いてたり。
最近、見ないね。大き目のスピーカーで結構いい音してたけど。
今はどうなんだろ。スピーカーで聴くのって。
こだわっている人ではなく、一般の人、若者。
メディアプレーヤーにつなげる小さいスピーカーなのかな。
それが、小さくても一昔の大きいスピーカーと同じ音が出ます
っていうのであればそれは『進化』だけれど。
さて。
*****
いろんなところで手軽さ(=スピード)に価値の重点が置かれて
物事の質があやふやになっていく(なっている、か)時代。
もちろん速度に価値を置くことで新たに手に入るよさはある。
それは大事、とても大事。
でも、それだけではないと思うわけで。
速度に重きを置かないゆえに高まるものも当然ある、はず。
僕が若者だった20年前から「価値観の多様化」ってことが
言われてきた。最近はあまり聞かないキーワードだけれど。
『多様化』という言葉は本来、広がりをもって是とするもので、
そのころと比べて価値が広がったかどうかと言えばどうだろう。
行われてきたのは細分化であって、広がりではないように感じる。
1に0.5を足して1.5になったのではくて
1を2に割って、ほんとは1のままだけれど2に見なしている。
そんな印象があるわけで。特にジャンル分けが進んでる分野ほど。
・・・ただ、細かく分けて名前つけただけ。
そうすると、価値観に対する興味はどんどん内側に進んでいき、
それはひとつの深化だけれど極端に狭い範囲。
それが異常であることを、歪んでいることを承知でいられる
バランス感覚があればむしろプラスになるかもしれない、けれど。
さて、さて。
ゆとり教育うんぬんよりも、机上の多様化のみが当たり前
になった平成の問題認識ではなかろうか、な。
うん。
*****
なんてことを小難しい屁理屈をウォークマンとてっぺんリバティを
見ながら思ったよ。
【たいやき考】
自転車で出かけた帰りがけ、目をつけておいたたい焼き屋さんで
たい焼きを買う。3匹買う。
おりからちょうど焼きたてのあつあつを3匹、そっけない紙袋と
おばちゃんの笑顔といっしょに手渡されてとてもうれしくなる。
ウエストポーチにおさめた3匹はまったくあつあつで腰のあたりも熱くなる。
そしたらもう「たいやきたいやき、はやく家まで帰ろうっ」と楽しくなって
もうそのまま家までまっしぐら。
でも、この感覚があるかぎりまだまだ大丈夫。
そう思った、うん。
今日は連休の二日目。明日は仕事だけれど午後からの夜シフト。
遠出するにはいいチャンス、なのだけれど、も。
天気予報もだんだんいい天気に変わってきてたし。
電車のって奈良まで行っちゃう?
いやいや、中央道PAツアー行こうか。
などと思いつつも、どうも乗り気が上乗せせず。
動き出しちゃえばそれはそれで楽しいのだけれど、うん。
基本的に季節性に重点をおいて地域性には(あえて)ほとんど考慮しない
僕の写真はやっぱり身の回りの「ん!」を撮りたいわけで。
遠くへ行く時間と旅費があるのならその分、フィルムを使いたいなぁと
思ってしまう今日この頃。
「旅先」、というものにはすごく重要ななにかがあってそれはそれで
換えがたいものだけれども。
この所、あまり写真も撮ってない、ような。
(あぁあくまで気分的に、です^^。撮ってる撮ってる)
休みの日の天気だとか、インドアの仕事なのでテニスしてたときよりも
紫外線に弱い(笑)だとか、週末に東名に乗りたくない(爆)だとか、
まぁいくつか理由もあるのですけれど。
ただ「ご近所ネイチャー、…」な写真は同じ季節に同じ場所でも同じ物は
撮れることはないという写真のひとつの根っこみたいなものはある、ような。
だから毎年毎季節おなじ場所でシャッターを切ってもちょっとずつなにかが
違っていて、その違う何かに気がつく自分でいられることが
僕にとっては重要、きっと。
だから、焼きたてのたい焼きを抱えてもうそれだけで嬉しくなって
まっしぐらに家に帰ろうって気になれる自分はまだまだ大丈夫だなぁ、と。
遠くへ出かける楽しさと同じくらいに身の回りの「ん!」に楽しくなれる、
いつまでもそんな自分でいれますように。
そう思うのです。
(おぉ、今日はまじめだ^^ ←こういうところがダメ(笑))
********
で、今日は結局いつと同じ日本平^^。
時間があるから、ゆっくりまわろう。
なんて思いつつもやっぱりちょっと疲れ気味。
(肩はようやくひどい肩こり程度になりました^^)
広い原っぱはしろつめくさもだんだん飴色になって
しろつめフリークだったみつばちたちもあじさいなんかにもご出勤。
ちいさいバッタばかりだった芝生の上は
ちょっとおおきなバッタや細長いショウリョウバッタにまざって
ちっちゃい黒い子がいっぱい飛び跳ねてる。
秋に向かって演奏家になっていくこおろぎのちっちゃい子たち。
まだまだ楽器の翼はないけれど、ぴょんぴょん跳ねるだけだけど
そのうちみんなで合唱なんだね。その頃まで元気でね。
大きくなったつばめたちはみんな休むことなく飛び回る。
ぐるぐるぐるぐる、旋回中。
気がついたらものすごく高い所まで上がっていく。
あーすごいなぁってぽっけとしてるといつの間にやら目の前を
あっと言う間にすぃっって通過^^。
そうかそうか冬には海を越えて行くんだもんね、おまえたちは。
木の幹をそろって上るありんこたちもずんずん大きくなったし
葉っぱものびのび青々で木陰と日向がまぶしいなぁ。
お散歩エリアはいつの間にかすっかり夏模様。
さ、あじさいの季節の次はなんの季節になるのかな。
えっと、たいやきの写真またあとで^^。
(2009年7月)
そんなタイトルの羅列
<話のネタ、思いつき>
1.相関関係の類似
(写真とアート:スケールモデルとガンプラ、
広がる概念と変化する「言葉」の意味)
2.類似(1)
(カメラの進歩とテニスラケットの進化、
テクニックに換わるテクロノジーのなかで)
3.類似(2)
(趣味はドライブ:趣味は写真、
道楽から一般化。あるのが当たり前の暮らし)
4.CDショップにて
(消えていくいつかのアルバムとミュージシャン、
平成の音楽シーンにスタンダードはありうるのか)
<考察>
1.ブログが果たせなかった本質的役割
※コメントとTBの持っていた可能性と取って代わる物
全宇宙の街角で何を発信する?
相関関係
フィルム:APS:デジタルとホームページ:ブログ:ついったー
2.速度の与える価値観とその危険性
「いいね」ボタンの功罪、見せかけのつながりと言語の危機
3.近代民主主義の沿革
政党政治の終焉と、その次にくるもの。
王権から貴族・富豪、そして選ばれた一部の政治業者、
より広く低く拡散する権力と。
4.国会議員の経費のなぞ
議員定数と人件費配分、その目的は違うはず。
あぁ、政治的なネタも書いていくとキリがない・・・orz。
僕は高速道路のパーキングエリアでご飯をたべるのが好きです。
特にちいさい食堂みたいなところで定食を食べると
とても美味しいご飯に出会えたりする、わけなのです。
が、高速道路のパーキングエリア、
最近なんだかちょっとこじゃれすぎな
そんな気がしておるのです。
パーキングエリアの食堂は
そばうどん、ラーメンやカツ丼に定食いろいろ。
そうであってほしいのです、うん。
そう、「定食」。
なのに新東名は麺類のお店とご飯は丼もの。
しかも下道でもふつうにあるチェーン店ばかり。
地域的なものでなくていいけれど、
ふつうにご飯を食べたいというニーズはないのかなぁ。
そこにしかないご飯屋さんで食べた美味しさはちゃんと
記憶に残ると思うんだけどな。
そして東名にもその流れが・・・。
それでもまだおいしい定食屋さんなPAもあるけれど。
どこにでもあるお店だらけになっちゃうと
もう「旅」じゃなくて単なる「移動」な感じがしちゃう。
ごちそうでなくていいなら、そこでしかないご飯を
食べたいなぁ、そう思うのです。
そして、やっぱりソースはウスターなのです。
ね^^。
そんな今日の午後。古くてあたらしいカメラを片手に
ご近所あるき、りくりくと。
別に久しぶりでもなくていつも歩いているけれど
『あー、ここはいっしょだ(30年前と)』とか
『ん?ここはどうなっていたっけ?』なんて思いながら歩いてみると
いつも感じているのとはちょっと違って、
なんだかけっこう昔のなごりがいっぱいある。
小学校なんて、変わったように見えてもよくよく見れば
なんだ、ほとんど昔といっしょ。
(それがいいのか悪いのかはさておき)
そのとなりの幼稚園はあたらしい建物だけれど、そのまんかなの
櫻の木は見覚えがあるな、きっときっと。
そんないろいろを思いながら散歩のついでに
AF35MLのためし撮り。
通電の具合なのか、自動巻取りだけちょっとうまく行かなかったけど
AFもフラッシュもちゃんと動いてた。
街を撮るにはいいんじゃない、そんな気がする40mm。
これからけっこう活躍しそうな、そんなです。
なんだかまともなことを言っていたので記録用に。
(2回分を連続でまとめています。写真はあまり関係ないです)
*****
<バランスと構図>
僕は仕事以外の時間の大半を写真のからみで使っているような
いわば「ものずき」、うん。
でも、構図というものをあまり考えた事がない。
う~ん、ちがうな。
なにも構えてそのまま撮ってるわけではないし、
ファインダーのぞいてちょっと左右・上下にずらしたり
腰を落としたりカメラを縦にしたりします、やっぱり^^。
でもなんていうかな、構図を考えて撮るってことがほとんどない。
はて?
で、ふと思ったのは構図ってのはその人そのものの
「バランス」ではなかろうか?という事。
あれこれ考えずにすっと構えてすっと切るシャッターで
切り取られた「もの」はその時の本人自体のバランスの表れなんだ、と。
個人のメンタル的な余裕やら懐の広さそのもの、なのか?
構図ってやつは…。
そうか、だから「構図」にのみこだわって気にするのが嫌いなんだ。
それは言ってみればパターン化して分類して分析すること。
そう考えれば「構図」にこだわって写真をうんぬんする事は
その写真を撮った人をパカーン化して分類する作業、か?
自分以外の何かに自分をカテゴリー割されるのがとても嫌いな僕は
だから構図のみにこだわるという事が本能的に嫌いだったのか。
うんうん。
そもそも写真の勉強は「露出と構図」。
あぁだから「簡単に綺麗に撮れます」的なマニュアル本が
嫌いなんだ。
既存のパターンにはめて分類化される、そういう事なんだ。
シャッター切れればなんでもいいじゃん。
なんて暴言を吐きながら、ふと思う。
でもその構図を考え、突き詰める事で既存のパターンとは
違う何かに辿り着く、そんなことも事と場合によってはあるのでは?
ま、どちらにせよ借りてきたバランス感覚は所詮自分ではないわけで
自分の気持ちいいバランスは他人はきっとアンバランスで
でも他人に合わせる必要はないわけで、うん。
(仕事でやってれば別ですよ、そりゃ)
つまり構図は個人のバランス力で、
それは本人の生活・人格・性格、そんなスタイルそのもの。
自分のスタイルを決めるのは何にどれだけ気を傾けるか、という
バランス感覚。
何も考えずにすっと構えた構図がいってみれば自分そのもの。
(あぁ、そうか。だからレンズは単焦点なんだ。)
構図力というか作画力ってのは構図だけうんぬんじゃなくて
自分の人間性の力なんだね、きっと。
という訳で今日はなんだか「深い」所へたどりつく入り口付近な感じで
やっぱり結論でないまま、うん。
*************
<レンズに対する勝手な考察>
昨日は自分の思考のなかで結果的に
(あぁ、そうか。だからレンズは単焦点なんだ。)
なんて事に辿り着いてしまってちょっとおどろく。
おおぉ!
こんな言葉はよく言われる言葉で基本と言ってもいいかもしれない。
でも、理屈だけじゃけして理解する事は出来ないことだと思う。
構図というものが撮影者本人そのものを現す事象であるのならば
レンズの画角は重要なひとつの要素になりうる。
写真で何かをあらわそうとするのであれば重要なのはカメラでは
なくてレンズの画角だったのか…。
画角があって、レンズの開放値があって、それを使用するに
可能なカメラの選択がある。
そうか、そういうことなんだ。
そう考えるとデジ一とセットのズームレンズで撮るという事と
トイカメラで撮るという行為、もしかしたら後者のほうが
「写真表現」の王道なのかもしれない、そうも思う。
ズームレンズしか使っていなければおそらく辿り着くことのない所へ
なんだかまぐれで近づいてしまった感もある今日この頃^^。
でもこの事を気がついて使うズームレンズと気にもせずに
使うズームじゃ何かが違う、きっと。
まぁFM3aには基本的に50mm f1.2しかつけないから
あまり関係はない(笑)。
コンパクトカメラ含めてフィルムのカメラで撮る事が
楽しかったのは3台とも単焦点だったから、なのかもしれないね。
ズームをぐりぐりすることなく自分のバランスに気持ちいい
構図を探す事が=楽しいこと、だったのかもしれない。
そーか、そうだったか^^。
構図=自分と考えるならが趣味のユーザーこそ自儘に
単焦点レンズを使うべきなのかもしれない。
たしかに今のズームレンズは写りで単焦点にも勝っている、
かもしれない。でもそれによって自己表現の場にたどりつく事が
減っているのであれば…。
ほとんどが同じ方向の品揃えのコンパクトデジカメと
その延長にあるかのようなデジ一のレンズキット。
それが悪いとは思わないし、間違っているとも思わない。
ファミリーユースとして正しくて楽しく思い出つくれる。
でも、それ以外のところへ辿り着くルートがあってもいいかな、と。
環境問題的にもフィルムがこの先いつまでも健在だとは思わない。
どんどんデジタルになっていく。それはかまわないんだ。
だからこそ、デジタルにも単焦点^^。
そう考えるとオリンパスのEーシステムのレンズ群は
どうも物足りない。
せっかくのE-410が活かされるレンズがない。
1本でいいから薄くて明るい単焦点の標準レンズを
作ってほしいな。
無数の新しい「なにか」が生まれそうな気がするんだ。
まぁこんな事を考えても僕の撮る写真はきっとかわらず
「ご近所ネイチャー」。
作品撮りはしませんことよ(爆^^)
*****
って、これ書いたころってまだマイクロフォーサーズがない頃だね。
オリンパスのE-410が「うわっ、ちいさい」って思ったからね。
いや、実際小さかったのだけれど。
そして今は単焦点のコンパクトカメラ(のデジタル)が評価されているわけで、
それは正しい方向なんじゃないかな、そうも思います。
先日、カメラを買った。
何気なく立ち寄ったリサイクルショップのジャンク箱。
ふと、見つけたのはキヤノンAF35MLのクォーツデイト。
ほとんど傷のないボディに純正のキャップ付き。
そっと手にとってキャップをはずして見ると
レンズもぴかぴかでレンズ内のほこりもない、
ほとんど新品みたいな、315円。
帰ってきてから電池を入れてみると
巻き上げも、巻き取りも動くし、シャッターも切れる。
どうやら、思ったとおり完動品、F1.9の40mm。
*****
このカメラには思いいれがある。
正確にいえば、このカメラではなくてベースになった
クォーツデイトの付かない方。
実は僕のはじめてのカメラはこれなのだ。
僕がまだ小学生だったころのある日、
父が「家にもカメラがほしいな」と言い出して
近所の写真屋さんへ行って買ってきたカメラが
AF35ML、いわゆる『オートボーイスーパー』。
写真屋さんって言ったて田舎町にあるちいさなお店。
ちなみに2階は撮影室で入学の記念写真も撮ってもらったな。
で、そこのちいさなショーウインドウにあったこのカメラが
家にやって来たのです。
職人的な仕事をしていた我が家にとって当時の金額で50000円って
かなり思い切った買い物だったと思うし、そんなこともあって
とてもとてもうれしかったし、楽しみだった。
調べて見ると1981年発売らしいのでそれこそ発売当初のピカピカ^^。
もちろん「我が家」のカメラなので勝手には使えないし
フィルムや現像にもお金がかかるから年に1回とか、
修学旅行のときなんかしか使わなかった。
それでも大学に進学して実家を出るときに
『これ、持ってくよ』って荷物に入れたそのカメラ。
大学時代も趣味で写真をしていたわけではないので
それこそ月に1~2本程度しか撮らなかったけど、
それでもそのとき撮ったいろいろは
今でもちゃんと覚えている。
今、見返してみても、彩度がちょっと低めでそれでいて
かっちりしたやや硬質な写りはいいな、そう思う。
このあたりのリサイクルショップでは
なかなか見かけずにいたけれど、思いがけずに。
カメラとしてもかっこいい。
最初に手にした『カメラ』とは違うけれど同じなカメラ。
ちょっと、いやいやとても楽しみなのです。
ブログ『ご近所ネイチャー、今日は何撮る』、
『しかちゃん、それは。』のなおつぐ^^です。
いままで、とあるちいさいSNSで日記を書いていましたが
そこが終了するとのことで、改めて日記用のブログをもうひとつ
作ることにしました。
そんなこんなで写真に関すること、散歩で見えたものや
駅弁だったり、いろいろと思いついた事柄をこっそり書いて行こうかな
なんて思っていたりするわけです。
どうぞよろしく。
コメントいただけると、うれしく思いますですよ^^。
基本的にはこんな感じ ↓ なのです。
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フィルムで撮る意味、なんて特に具体的なものはない。
それは「ノスタルジー」に属するもの。
フィルムを入れる、巻き上げる、
ピントリングをまわす、シャッターを切る
デジタルとフィルムの優劣なんてすでにナンセンスで
出来上がりに関してフィルムで撮る意味なんて
やっぱり、ない。
でもフィルムで撮ったものにより惹かれるのは
その工程もふくめて 「撮る」という行為なんだよなぁ、
と漠然と思う、うん。
僕の撮るお散歩写真は空気感や季節を
なんとなく残したいんだ、きっと。
過去を振り返るようなノスタルジーではなくて、
今を閉じ込めるような
生きたノスタルジーを切り取りたいなぁ。
なんて思いつつも、
カメラを持ってりくりく歩けば何にも考えずに
その時のこころのバランスのまんまの構図で
「うみー」とか「ねこ、にゃー」とか
「葉っぱー」なんて言いながら
走りだしたり丸くなったり立ち止まってみたりしながら
ピントリングとシャッターだけになって撮りたいなぁ、
そう思うのです。
うんうん。
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というわけで、身の回りの風景・雰囲気などを
ゆっくりのんびり撮っています。
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